骨を拾う人(QG通信2022年夏号vol.21掲載)

好きに書いてスミマセン--21

東京の上野公園は、西郷隆盛が犬を連れた大きな銅像で有名です。でも、その後ろに悲しい墓がある事は、あまり知られていません。墓石には「戦死の墓」と刻まれています。お墓ですから、通常は葬むられた人の名前を刻みますが、刻めない理由があったのです。

1868年、幕府最後の将軍徳川慶喜を護ろうとする彰義隊(しょうぎたい)と明治新政府軍がここで戦ったのです。武力に勝る新政府軍は、半日で彰義隊を壊滅させました。彰義隊士達の遺体はこの上野山に放置されていたのですが、円通寺住職仏磨らによって、ここで荼毘に付されたのでした。「戦死の墓」と曖昧な表現にしたのは、明治新政府側から見ると、彰義隊は賊軍だったからです。

 

彰義隊の墓

彰義隊の墓

沖縄が第二次世界大戦で激戦地だったのはご存知だと思いますが、ここでも米軍から反米行動と見られながらも命懸けで遺骨収集した人がいる事はあまり知られていません。当時の真和志村の金城和信村長です。米軍の総攻撃を受け、沖縄南部に追い詰められた日本兵と民間人の多くがここで亡くなりました。金城村長は、路上や畑の中など、いたるところに散乱し放置されていた遺体を、住民達と共に集め始めました。その数は三万五千住と言われています。その遺骨は魂魄(こんばく)の塔として現在の糸満市米須に祀られております。

この塔を皮切りに、この周辺には各都道府県の戦死者を慰霊する塔が建つ様になりました。その中でも東京の塔は、東京都から南方諸地域の戦地に赴き亡くなった十万人余りを慰霊しています。塔の周りには、遺族が多摩川で拾ってきた小石が敷き詰められています。

東京の塔(周囲は多摩川の小石)

東京の塔(周囲は多摩川の小石)

沖縄に並ぶ激戦地である硫黄島(いおうとう)での戦死者は二万千九百人ですが、収容された遺骨は一万五百人とされています。約半数の一万一千四百人の遺骨は見つかっていません。ではこの遺骨はどこに行ってしまったのでしょうか?米軍は硫黄島占拠後、ここを日本本土爆撃の拠点にすべく、滑走路を作りました。現在は自衛隊がこの滑走路を使用していますが、おそらくこの滑走路の下に遺体が埋められたのではないかと言われています。

2013年に当時の安倍晋三総理が硫黄島に慰霊に訪れた際、気温40度を超える地の滑走路下に眠る英霊に四つん這いになってお詫びをしました。英霊の上を自衛隊機が発着をして申し訳ございませんというお詫びでした。安倍総理は、ご自分の政治生命をかけてこの滑走路を剥がして遺骨収容を行おうとしていました。

国のために命を賭した人の骨を拾う以上の平和祈念はないと考える今日この頃です。

お客様と「植木屋革命」クイック・ガーデニングをつなぐコミュニケーション誌 クイック・ガーデニング通信 2022年秋号vol.21 ,株式会社クイック・ガーデニング,2022年8月31日発行,6ページ